今回のインタビュー依頼を受けた時「自分のことを知ってもらいたい。
自分の言葉で同じような状況にいる誰かの心に、何か響いたら嬉しい。
こういう機会・チャンスは滅多にない」そう思って、取材を受けることにしました。
私(小林聖司)の人生の折れ線グラフ
居場所がなくて感じた孤立感
人から見たら気難しく見えるかもしれないけど、単純というか、正直な人間だと思います。名前(聖司)の由来は、「清く正しく」という意味だと、随分前に聞きました。自分の名前はまずまず気に入っています。口数は多い方ではないけど、話をするのは好きです。
通っていた地元(群馬)の幼稚園は送迎バスがなかったので、家から歩いて通っていました。街の中に田んぼの風景とかを見ながら歩いていた記憶があります。母によると、みんなから「せいちゃん、せいちゃん」と可愛がられていて人懐っこい子だったそうです。
小学校時代は他の子と比べて走るのが遅かったり、みんなと同じようにできないことがいくつもありました。思うようにいかないことで苛立ちもあり、時にクラスの子に当たってしまうこともありました。
転機は小学校5年生の頃の転校です。病状が進行して地元の療護園に入園、あわせて養護学校の小学部へ転校することになりました。まさか転校することになるとは思っていなかったけど、親に言われるまま、そのような流れとなりました。元々、喜怒哀楽があった方なのですが、転校してから徐々に性格が内向的になり、中学生になってから少しずつ自分らしさや明るさが無くなっていきました。周りに同じ病気の人がいなくなってしまったこと、そして気の合う友達があまりいなかったことが原因だと思います。自分で歩くことが難しくなったのは中学校1年生の途中くらいからです。
高校に入っても中学時代と似たような、居場所がなく孤立感がありました。話せる相手があまりいなくて、母とは話すけど兄とはあまり話さなくなっていました。以前は、兄とも仲が良かったのですが、小学5年の転校からは距離を感じるようになりました。転校前は毎日会っていたけど、転校してからは週末くらいしか家に帰れず、兄は部活もしていたので接することが少なくなっていました。やはり毎日会うのとたまにしか会わないのとではだいぶ違いました。ちょっと寂しい気持ちがあったけど、兄にその気持ちを伝えたことはなく、未だ、兄は知らないと思います。
熱狂できるもの"サッカー"との出会い
高校時代にサッカーのワールドカップと出逢いました。フランス大会で中田英寿が活躍する姿に日本中が熱狂していて、僕も徐々にサッカー観戦にのめり込んで行くことに。最終予選からの熱気や盛り上がり、そして見ていて心が動かされる感覚に魅了されました。高校卒業後、病院に入ってからはJリーグも観ることに。院内にはサッカーが好きな人が多く、それぞれ好きなチームがあって、自分も一緒になってTV観戦をしていました。
スタジアムで初めてサッカーの試合を観たのは2002年。国立競技場で行われた、横浜マリノス対ジュビロ磐田の試合。マリノスが好きな友人に連れられて満員の国立競技場でサッカーを観ることができました。その後、埼玉スタジアム2002で観た「浦和レッズ対清水エスパルス」戦。当時、一世風靡した安貞桓(清水エスパルス)のJリーグデビュー戦でしたが、エメルソン(浦和レッズ)のプレーがとにかく衝撃的でした。その後は年に数試合浦和レッズの試合を観に行ったり、日本代表の試合も1度だけ観に行くことができました。
2005年から2009年頃、埼玉県蓮田市にあるチーム「ブラックハマーズ」で電動車椅子サッカーもしていました。見るのとやるのとでは全然違ったのが印象的でした。病状悪化と気管切開手術のために辞めないといけなくなり、チームに何一つ貢献できなかったことが心残りで、申し訳ない気持ちでした。
変わりたくて始めた「一人暮らし」
やりたくて叶えたことは、「北海道旅行」「B’zのライブに何度も行けたこと」「埼玉スタジアム2002でサッカーを観られたこと」など色々ありますが、一番はやはり、「一人暮らし」です。
起きる時間・寝る時間・食事やトイレの時間など、自由にできたのは9歳まででした。施設にいた時もある程度ルールがあって自由ではなかったけれど、病院に入ってからはさらに厳しくなることに。高校3年の秋に病院に入院することが決まった時、その現実を受け入れることが難しかったです。
「このまま病院で一生終える感じでいいのか。変わりたい。もっと明るく前向きで活発な人間になりたい」「もっと一人の人間として認められたい、そのためにも病院を出るしかない。」そう思うようになり、病院の保育士のOさんに気持ちを伝えたり、相談するようになりました。そしてOさんが「自立生活センターくれぱす」を紹介してくれることに。くれぱすには、重度の障害を持ちながら一人暮らしをしている人がいて、手本となってくれました。中でも、UさんやMさんは、明るくて前向きで輝いて見えて、元気や勇気・パワーをもらえました。いつ接しても、ネガティブなことを言わないことも印象に残っていました。そんな”くれぱす”と繋いでくれて、何でも親身になって聞いてくれたOさんはとてもありがたい存在でした。
僕が自立すると「母の負担を減らすことができる」、それも一人暮らしをするきっかけの一つです。
絶頂→絶望、そして再起へ
"くれぱす"の協力のおかげで始められた一人暮らしの日々に、充実感を得ることができ、「自分次第でどうにでも変われる」ことに気づくことができました。
しかし2009年10月から病態が悪化、2010年1月上旬に気管切開手術をすることが決まりました。入院して手術する、以後は医療ケアが必要になる。必然的に一人暮らし生活は終わることになりました。
入院直後は、「早く退院したい」という気持ちがありました。病状は改善したり悪化したり一進一退。外出をしたいという願いはなかなか実現に至らず、もどかしさや焦りが募りました。外出のためには、医療ケアや生活サポートをしてくれる人が必要となるため、自分で調べたり友人に相談したりして、看護師による付き添いサポートをしている「スーパーナース」と生活支援NPOの「familish」にサポートをお願いし、外出のリハビリを行うことになりました。
そして、33歳の時、6年ぶりに再入院後初の外出が果たせました。近場から少しずつ遠くへの外出をしようと考え、病院から近い家電量販店「デンキチ」への外出が第一歩に。そして、その3年後には10年ぶりに群馬の実家へ帰郷。帰りたい気持ちはずっとあったけど、やっと叶えることができました。車で1時間半、一番遠い外出。家のドアを開けると懐かしさを感じるとともに、少しだけ変わった家の中を見渡してしみじみ。最初に交わした母との会話は「静かだね」「みんな学校とか行っているからね」といった、何気ないものでした。
外出したい場所はまだまだあります。「埼玉スタジアム2002でレッズの試合観戦」「羽田空港で飛行機を間近で」「修学旅行で行ったディズニーランド。次はディズニーシーへ」などなど。そして野望は「沖縄へ行くこと」。飛行機だと大変かもしれないけど、船の移動なら楽かもしれないですね。外出の計画を練ることも、今の楽しみの一つです。
伴走者より
小林 恵子さん(母)
小さい頃は太陽のような存在でいつも膝の上に座っていました。聖司にはなんでも言いたいことをいうようにしています、なので喧嘩もしょっちゅうあります。優しい子なので、喧嘩しても少し時間を置いて「さっきは悪かったね」と謝ってくれます。
母親仲間や職場では、聖司の病気や状況については何も隠さずにそのまま話しています。考えを押し付けたこともあるけど、できれば思い通りにやってあげたい。明るく頑張り屋の聖司で今の状況を把握しながら、聖司が一番いいように人生を送って欲しいです。
一般的には、視覚障害のあるマラソンランナーが安全に競技が行えるように側について走る人。本誌では、難病を抱えながら頑張っている人の側で寄り添い支えている方を指しています。
My Key Person転機のきっかけとなった大切な「人」
母
再入院後、外出できるようになったのは、母の存在がとても大きいです。仕事を変えて平日休みが取れるようにし、僕の外出に必要な「医療処置の指導」を受けてくれたからです。
年齢の割に元気で、なんでも話しやすくて家族想いな母。長生きしてもらいたいです。
藤園 豊さん (ライフアシストfamilish)
以前、友人がfamilishにいたので、その縁で外出のサポートをずっとお願いしています。多くの回数外出ができるのはfamilishさん、藤園さんのおかげ。
藤園さんは、男気があって頼れる存在、そして責任感が強いです。常にポジティブで明るく、僕もそんな風に明るく活発になりたいと憧れます。「いつもありがとう」
※ライフアシストfamilish:障害を持った方の生活支援をしているNPO
川幡 民絵さん (スーパーナース)
外出サポートをしてくれる看護サポートをインターネットで調べました。
川幡さんは、いつも笑顔で接してくれる優しい方。何か必要な時に、さっと用意してくれる気遣いができることが素晴らしいですね。気管切開後、外出できるのは川幡さんのおかげです。
※スーパーナース:外出時の付き添い看護や、在宅看護のサポートを行っている。
Special movie
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