単純に目立ちたいのでインタビューを受けたいと思いました。筋ジストロフィーなどの難病患者で、女性でインタビューに応じる人は少ないようだし、気管切開をしたのに声が出ること自体が珍しいことなので「よし!私がやったろうじゃん」って思いました。
私(岩出幸子)の人生の折れ線グラフ
「産んでくれなければ良かった」と八つ当たりした小さな頃
生まれてからしばらくして、赤ちゃんはハイハイすると思いますが、私はできませんでした。色んな大学病院を回ったけど原因がわからなくて、筋ジストロフィーの先生がいる(埼玉県)蓮田の東埼玉病院を紹介されました。2歳で筋ジストロフィーだとわかったとき、父と母は泣いたそうです、「親戚でそんな(筋ジストロフィーの)人はいなかった」と。この話は私が物心ついたとき、小学校2−3年の時に聞かされました。栃木の田舎で育ったのですが、闊達な子でした。
小学校に上がった頃、私は足を引きずる歩き方をしていたことが原因で様々ないじめに合いました。教科書を隠されたり、昆虫の死骸が机に入っていたり、教室から締め出されたり、階段から突き落とされたり、など。辛かったですが、誰にも相談できませんでした。親には八つ当たりして「なんでこんな体に産んだんだ、その時に産んでくれなければ良かった」なんてことも、言ってしまいました。母親はそれでも「学校に行きなさい」と言い、連れて行かされました。
小学校6年生になる頃には、自力で歩くことができなくなり、施設と小学校が連結されていた蓮田市内の養護学校へ転校しました。この養護学校は送り迎えをしてくれるところで、施設でリハビリをして状態を維持しつつ通いました。家族と会うのは週に1度ほどに。養護学校に入って良かったと言う人もいますが、私の場合はそうではありませんでした。転校先の養護学校でもいじめにあったからです。小学校でいじめていたのは健常者でしたが、養護学校では同じ筋ジストロフィーの人にいじめられました。養護学校では勉強が遅れている人に合わせるのですが、私は勉強ができたので、生意気に映ってしまったからです。
初めての彼。そして、自分でも驚いた結婚
転校後、13歳の時に初めての彼氏ができ、そのことが転機になりました。彼はもともと私をいじめていた子だったのですが、小学生によくあるような「好きな子をいじめていた」ようで、実は私のことをずっと好きでいてくれたのです。彼が告白してくれて、「じゃ、付き合ってみる」ってなって付き合うことに(笑)初めての彼から結婚まで、彼氏が途切れることはありませんでした。障害があると恋愛に躊躇する人もいるかもしれませんが、私の場合、「自分にはなんでもできる」と言う気持ちが先行していたので積極的に動くことができました。
高校卒業前、友達の紹介で新しい彼ができ、その彼と結婚をすることに。彼とは付き合っていた期間を合わせると4年ちょっと一緒にいました。
最初は幸せだった結婚生活ですが、私が25歳の時に、彼の浮気が発覚。それを契機に結婚生活は破綻し、離婚することになりました。離婚はとても辛かったのですが、離婚に伴う事務手続きに没頭することで、なんとか辛さを紛らわせることができました。
どん底を経験した、25歳からの10年
さらに、離婚の3年後に、辛い事態に陥ることに。体の異変に気づいたのは、20歳過ぎくらいから。字が書きづらくなり、次第に手が動きづらい状態に、そして呼吸が少しずつ苦しくなってきました。27歳のころ、朝起きたら物凄い頭痛を感じることが多くあり、28歳で、気管切開手術を行い、人工呼吸器を装着することになりました。
離婚や気管切開手術の他に、結婚後に入った障害者団体の問題も私を悩ませました。私は、障害者の生活を支援する団体に参加し介助部門の代表をしていました。その団体のポリシーは「介助者は介助者、利用者は利用者、介助者は感情持ってはいけない」といったものでした。実際に私も、介助者を手足のように使ったり「どうやって言うことを聞かせようか」といつも考えていました。でも、介助者の中には友達もおり、「介助者と話してもいけない」という団体のポリシーが辛く「このままだと友達との関係が崩れてしまう」と感じました。そんな時に以前、同じ障害者団体に所属していたことがあり今はFamilish(障害者支援NPO)の副代表をしている藤園さんが「そんなんだったらうち(Familish)に来いよ」と誘ってくれました。Familishは、「介助者と利用者の隔たりがない」「介助者にも感情がある」「だからこそ、喧嘩もするけど、楽しい」と聞いており、Familishに移ることになりました。
なんでも相談できる人生の先輩との出会い
私が最初の障害者団体や介助者とのことで悩んでいる時、良き相談相手であり悪友でもある安藤先生との出会いがありました。Familishのスタッフに埼玉大学の学生がいて、私に「さっちゃんに、いい人いるよ」と埼玉大学教授の安藤先生を紹介してくれたのです。出会って間も無く、安藤先生に「さっちゃん、正直な話、死にたいって思ってない?」と聞かれて、正直に「(死にたいと)思ってる」と答えたら凄く怒られました。私は正直に言うと、さびしがり屋で本当は暗い。できれば1人でいたいと思う性格なのです。以前いた障害者団体は、悩みがあっても誰も助けてはくれず「1人で解決すべき」というスタンスだったので、誰かに助けを求めたり、相談することはできませんでした。そのため、悩んだときは、自分を守るのに下手な嘘をついたり、介助者にぶつけたりしていました。これまで、私のことをちゃんと怒ってくれる人なんていなかったので、怒られた時「なんだこの先生は!」と思いましたが、「安藤先生は私の性格をちゃんとわかってくれている」とすぐに気づきました。安藤先生は、とても優しいけど、時に厳しく叱ってもくれる。なんでも話せる人、何かあれば来てくれる、私に安心をくれる存在です。安藤先生には、これからも私の良き先輩として、相談に乗って欲しいです。体を大切にして教壇に立って欲しいですし、教授という仕事だけでなく、自分のやりたいこともやって欲しいと思います。
「手術後も、一人暮らし継続」しか考えていなかった
40歳になる頃、徐々に内臓機能が落ちていき、胃ろう手術をすることになりました。でも、一人暮らしをやめようとは一切思いませんでした。気管切開の時も同じですが、手術前に「手術後はどういう状態になり、どう対処をすれば一人暮らしを継続できるか」を病院の先生に確認し、「胃ろうを作った後も、一人暮らしを継続できること」のお墨付きを得てから手術を受けました。胃ろうにするか経管チューブにするか選べたのですが、胃ろうだと洋服で隠せるので胃ろうにしました。そして、手術後のことを考えて新しい車椅子を作り、家で注入をしやすい方法をFamilishの介助者と一緒に考えました。
以前、訪問看護師に介助をお願いしたこともあります。医療従事者でないとわからない医療的な対処などを、体調を崩した時に教えて欲しいと思います。
私に勇気をくれるプロレス
23歳の頃、生で大日本プロレスの試合を観戦しました、それからプロレス観戦にハマって、今は1ヶ月に3回観に行くこともあります。ハードコアなプロレスが好きでスケジュールを調べて観に行くのですが、介助者によってはハードコアな血が出るような試合はダメな子もいますね(笑)。大好きな選手はFREEDOMS(フリーダムズ・プロレス)の葛西 純選手、年齢、血液型、誕生日が一緒なんです!前の障害者団体にいた時に、プロレス好きが高じて地域にFREEDOMSを呼んで、試合をしたり地域の子供をリングにあげたりするイベントを主催しました。葛西選手はいつもどんなときでも全力で観客を楽しませていて、「こういう風に、(私にも)頑張れ」と勇気をもらってます。
My Key Person転機のきっかけとなった大切な「人」
安藤 聡彦 教授(埼玉大学教育学部)
胃ろうで入院した時、介助者へ自己紹介で「幸子の悪友の安藤です」と言ってくれたことがとても印象に残っています。大学教授というと「格上なお方・手の届かない存在」というイメージがありましたが、この先生は違いました。普通に怒ったりもしますし、喧嘩をしたりもします。
安藤先生は、私の良き相談相手であり、大先輩であり悪友です(笑)。
ライフアシストFamilish
簡単にいうと、「自分がいていい場所」。Familishのみんなは、良い意味で「遠慮がない」。一緒にお酒を飲んだり、普通に喋っていることが日常の中にあり、「障害者だから」というのがない。Familishはとても大切な存在です。
※ライフアシストfamilish:障害を持った方の生活支援をしているNPO
葛西 純選手(FREEDOMS-フリーダムズ・プロレス-)
プロレス観戦は私のストレス発散であり、元気をくれるものです。選手が体を張って頑張ることで、こちら側が元気付けられます。
FREEDOMSの葛西選手は、ギャップが可愛い!ハードな見た目ですが、注射が怖かったり、お子さん2人の良きパパだったり。ブログでほんわかしている様子を見ると「可愛い」って思ってしまいます。
伴走者より
安藤 聡彦 教授
さっちゃんは、「率直、大胆、飽くことを知らない」。だけど、「すごく柔らかいものがあり、傷つきやすく、乙女でもあり、へそ曲がり」でもある、とても魅力ある女性です。
さっちゃんと接することで、周りの人は、色んなことを問われたり考えさせられたり、自分が持っているものを様々な形で見返したりすることができ、色んな人がさっちゃんと関わる中で大きなものを得て行くと思います。
大事なことだと思っているのは、さっちゃんがさっちゃんであり続ける、さっちゃんがさっちゃんとして自分の人生を生きてくれるってことだと思っています。
「ファンキーな幸子よ永遠なれ。」
一般的には、視覚障害のあるマラソンランナーが安全に競技が行えるように側について走る人。本サイトでは、難病抱えながら頑張っている人の側で寄り添い支えている方を指しています。
Special movie
今回の取材模様がギュッと凝縮された動画です!
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